秦の始皇帝ってどんな人なの?そもそもいつの時代の人なの?簡単にやさしく説明して!

この記事は約3分45秒で読めます

435t3545

秦の始皇帝とは

三国志は知ってるけど秦の始皇帝って誰だよ!という人も多いはず。秦の始皇帝とはザックリ言うと、初めて中国を統一したスゴイやつ。そして、情け容赦ない冷酷で物々しい怖いやつなのだ!

今回は中国統一までの彼を紹介していこうと思います。どんな強面なのかドキドキしますね。始皇帝さんお入りください。

 秦の始皇帝のビジュアル

すらっと長いヒゲがチャーミング!ほっぺが赤くてちょっと照れ屋さんなのかな?ハッ!おでこまで赤い!ししししししもやけみたい!

しかし、そんな癒し系の見た目とは裏腹に、いざとなったら暗殺者を自分で叩き切れるほど戦闘力の高い彼なのです。甘く見てはいけません。

始皇帝の物語は中国大陸が7つの国に別れている前247年から始まります。

 

物語の始まり

しもやけ王子こと、始皇帝は13歳で秦(しん)の王位を継ぐことになります。世は戦国七雄が群雄割拠する激動の時代でした。下の地図は年代が違いますが大まかこのような勢力図です。

260年の中国の地図

秦は国土こそ大きいものの国力は小さく、南は山ばかりでした。スタートからハンデがあるなんて始皇帝かわいそう!しかも13歳とかいう年齢で心配!本当に大丈夫なの?

がしかし、始皇帝には強い味方がいるのでご安心を!秦の政治家をしていた呂不韋(りょ ふい)のことである。

呂不韋

幼い始皇帝は呂不韋を補佐として政治はスムーズに進んでいったのでした。

 

始皇帝13歳

「これから頑張るンゴ。よろしくニキー」

呂不韋

「幼い始皇帝のためにアドバイザーするやで。よろしくやで彡(^)(゚) 」

 

 

数年は大きな問題もなく国の運営は続きます。しかし、始皇帝が22歳にもなるとある問題が表面化してきたのです。

 

呂不韋

「アレもコレもソレもやるやで~」

始皇帝22歳

「あぁ…コレは違うやり方がええんちゃうん?」

呂不韋

「…そんなことないで。 言ったとおりに政治してればええんやで彡(゚)(゚) 」

始皇帝22歳

「…そうやね。 (なんかうっさいわ。もうワイもいい年なんやで。自分の意見を通したいわ)」

 

 

始皇帝は呂不韋を疎ましく思うようになっていました。

 

そんなある日のこと

 

呂不韋

「…。よく聞こえへんかったです…。今なんと」

 始皇帝

「おまえを罷免(ひめん)すると言ったんや。つまりクビにするってことや」

呂不韋

「なんでですのん…。こんなに尽くしてきたというのに。」

始皇帝

「このまえ、ワイの母親が知らん男と子供作ってるのが発覚したんやが、おまえは実はそれを知っとったやろ?」

呂不韋

ドキッ

始皇帝

「これはワイに対する裏切り以外の何物でもないで? ちなみに母と男は火炙りにしておいたから(マジキチスマイル)」

呂不韋

「ヒエッ」

始皇帝

「賢い呂不韋くんなら自分が今後どうなるか分かるよね?(ニッコリ)」

呂不韋

「彡(;)(;) 」

 

 

その後、呂不韋は誅殺(ちゅうさつ)を恐れて、自分で毒を飲み自害。これを理由に始皇帝は『恩少なく虎狼の心を持つ』と言われるようになります。

さて、アドバイザーを失った始皇帝に未来はあるのか。呂不韋から実権を取り戻した、しもやけ王子の天下取りが本格的に始まるのだった(`・ω・´)

 

この記事は『楽しい歴史』が執筆しています。

国力を増す秦

隣国に国力で劣る秦を始皇帝はどのように中国統一まで導いたのでしょうか。

呂不韋の次は思想家である韓非(かんぴ)という人物が大きく関わってきます。当時、始皇帝は韓非のためなら死ねる!などと言ってしまうほど韓非子を傾倒していました。 『君主の患いは人を信じることから始まる』 という教えを重視し、秦は法に則り客観的な価値基準で統治されることとなります。

ちなみに下の画像が思想家の韓非さんです。

韓非

 

韓非さんはこの写真だと「そんなこと言うのはこの口か」のAAっぽい雰囲気を感じてしまう。

 

似ているアスキーアート

 『君主の患いは人を信じることから始まる』 という教えから感情を忘れた中二病モードに入った始皇帝は、実力主義と法治主義により国力を強めていきます。

 

画期的!実力主義の軍事補強

始皇帝は実力者であれば異民族でさえも登用し、戦で戦果を上げれば身分に関係なく階級を特進させると定めました。この実力主義により秦の軍事力、忠誠心が次第に強固なものになっていきました。

 

半端ないスケール!広がる可耕地

内政面では大規模な灌漑工事を行い可耕地を広げていきます鄭国渠(ていこくきょ)と呼ばれる巨大なダムを完成させ、可耕地を飛躍的に広げることにも成功します。

 

 

中国統一

強大な国力と軍事力を手に入れた秦は隣国をあっという間に滅ぼしてしまいます。途中で燕(えん)の暗殺者が始皇帝を狙って跳びかかってきましたが、そこは始皇帝、巧みなステップで受け流し暗殺者を逆に叩き斬ります。

南方の楚(そ)にはちょっと手こずりましたが物量で押し切ります。そしてついに前221年に中国統一を成し遂げるのです。やったぜ始皇帝!

秦の始皇帝の喜び

ちなみに記事中では始皇帝、始皇帝と散々書いていますが始皇帝と初めて名乗ったのは中国統一後のことで、それまでの名前は政(せい)。自分が亡くなった後も二皇帝、三皇帝と続いてほしいという意味合いを込めて自分を始皇帝と名乗ったのでした。

ちょっと冷酷で、偉業を成し遂げたスゴいやつ。彼は有史以来はじめて中国を統一した偉大な人物として語り継がれています。

 

 

統一後の秦の始皇帝についても、できるだけ短く、やさしく説明を書きました。
よろしければ読んでみてください( ´∀`)(2015/09/08追記)

秦の始皇帝って中国を統一した後どうなったの?不老不死を求めて大爆走!秦の滅亡までを短く解説

 

 

スポンサーリンク

関連記事

  1. eyecatch-223dg3
  2. 5427755
  1. 茶沢山 2015.07.07 2:00pm

    実はこの始皇帝・政、呂不韋の実子と言う説もあり、「史記」には実際にそう記されているそうですね。
    後の歴史研究家はこぞって「そんな筈は無い」「偉大な始皇帝に対する誹謗中傷だ」と言う逆説的な証拠を持ち出すのですが、どれも推論の域を出ません。

HTMLタグはご利用いただけません。

サイト説明

歴史に興味を持ちたい!という要望に応えるブログです。

カテゴリー

アーカイブ

RSS Feed Widget