毛利元就とはどんな人?吉川と小早川の毛利両川ってなんだろう?できるだけ短く解説

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そもそも毛利元就って誰だろう?

毛利元就(もうり もとなり)って中国地方の人らしいけど、なんだか地味であんまり目立たない・・。

戦国時代と言ったら織田信長よね。豊臣秀吉よね。などと聞こえてきます・・・。(´・ω・`)

というのも毛利元就が家督を継ぎ、活躍する年代は1523年あたりから。

これは織田信長が勢力拡大する時期から40年ほど前であり、さらには1546年に隠居を表明。有力選手が活躍するメジャーな時期では、すでに現役引退し一線を退いていたことも原因のようです。

じゃあ毛利元就ってどんな人なんでしょうか。ただの隠居したヨボヨボおじいちゃんなんでしょうか。

 

 そして、もう一つ謎なのが

毛利元就の生え際を考察

 

安芸国の国人 毛利家

1523年・・・当時の毛利家は安芸国(あきこく)の国人であり、北に尼子家(あまご け)、西に大内家(おおうち け)という大勢力が存在していました。国人とは小さな領土をおさめている人達のことです。

毛利家周辺の勢力図

安芸国の小さな国人勢力は、大内家と尼子家の争いに巻き込まれ、代わりに戦場に駆り出される、まるで傭兵のようにこき使われる無力な存在でした。

そのような状況「このままじゃ毛利家がもたないで!周りの勢力の影響を受けない国造りをするンゴ!」と変革をもたらしたのが毛利元就なのです。

 

元就は周辺の豪族だった、宍戸家(ししど け)に娘を嫁がせ友好関係を築き上げます。さらに跡継ぎ問題により不安定になっていた小早川家、吉川家に自分の息子を養子に出し、彼らを当主に押し上げる形で勢力を実質的に取り込みます。

二人は小早川隆景(こばやかわ たかかげ)吉川元春(きっかわ もとはる)と名を変え、その後の毛利家を長くサポートしていくことになります。

毛利両川と呼ばる体制の完成です。

安芸国の国人勢力と毛利両川

 

毛利家 VS 大内家

1551年・・・当時の元就はすでに隠居しており、毛利家の当主は長男の毛利隆元(もうり たかもと)でした。

しかし、隠居とは名ばかりであり、毛利家の実権は未だ元就が握っておりました。

近隣情勢としては、毛利家は大内家に従属しており、毛利家が従属する代わりに毛利勢力下の国人に大内家から圧力をかけないという約束をしていました。

つまり、この時点ではまだ毛利家は大内家、尼子家よりは格下のような状態でした。

 

毛利家

大内家のために働くから毛利家の国人には圧力かけんといてな

大内家

分かったンゴ

 

しかし、大内家の家臣であった陶晴賢(すえ はるかた)によるクーデターで当主である大内義隆(おおうち よしたか)が自害に追い込まれると、大内家の対応が変わります。

 

大内家

おまえんとこに圧力かけんと言ったな。あれは嘘だ。

毛利家

・・・!

大内家

すでに毛利家の国人達に圧力かけた後だから。

毛利家

ヒエ~ッ

大内家

そういえばお前んとこの領土大きくなってきたな。いくつか領土を差し出せ。

毛利家

そんな余裕ないンゴ・・・。

大内家

おまえらはワイらの手下なんやで(ニッコリ

毛利家

・・・・・・・。

大内家

なに黙ってるんだ。

毛利家

・・・・・・ンゴゴゴゴゴゴ!いい加減に許せないンゴ!!!

 

この横暴に毛利家では打倒大内家の機運が高まります。ついに毛利家が自分の足で立つための独立戦争が始まるのでした。

 

しかし、毛利家側は五千の兵なのに対し、大内家側は二万以上の兵力があり、到底まともにやりあえるはずもありません。 

戦国一の謀将と評される毛利元就もここまでか!と思いきや、合戦中の厳島に大量の水軍が姿を現します。

元就は事前に村上水軍に援軍を頼み、あえて厳島に大内軍をおびき寄せて包囲したのです!予想だにしない海からの攻撃に大内軍は大混乱し、壊滅してしまいます。

毛利家と大内家の戦

これ以降、大内家は弱体化。最終的に毛利家に吸収されます。

 

毛利家 VS 尼子家

独立を成し遂げるどころか、思いがけず勢力拡大してしまった毛利元就。

次に待つ対戦相手は尼子家でした。

 

1560年・・・尼子家の当主、尼子晴久(あまご はるひさ)が没したことにより家中が動揺。このチャンスを見逃さず毛利家は進軍を開始します。

尼子家の月山富田城を包囲することに成功した元就は、巧妙な兵糧攻め、ダメ押しの離間策により尼子を内部から崩壊させていきます。

兵が逃げ出し、家臣が疑心暗鬼になった尼子側は降伏を余儀なくされ、ついに元就は因縁であった尼子家を滅亡させてしまいます。

毛利家と尼子家の戦

こうして毛利家は当初は小さな国人であったのにも関わらず、最終的には中国地方の広大な領土を治めるまでに勢力拡大し、その名を天下にとどろかせるのでした。

 

この活躍の後、毛利元就は1571年に亡くなりますが、彼の知略と活躍があったからこそ、戦国時代の毛利家が存在できたと言っても過言ではないほどの人物でありました。

 

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