前田利家ってどんな人?若い頃は傾奇者と呼ばれた前田利家を簡単に解説!

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前田利家と織田信長

前田利家(まえだ としいえ)が生まれたのが1538年。小さい頃から織田家に仕え、織田信長(おだ のぶなが)の小姓として身の回りの世話を任せられます。小姓というのは、ときには相談役になったり身辺警護をこなしたりと、主君の手となり足となる重要な役割でした。当時、利家は13歳。

小姓としてお仕事をする中で、信長と利家は愛人関係になってしまいます。(震え声)

いろいろと深い深い信頼関係を築き上げた二人でしたが、青年期になると利家の持ち物が、織田家の家臣に盗まれてしまう大事件が起きます。

れに血管破裂せんばかりに激怒した利家は「拙者の持ち物が盗まれたでござるよ!」と激怒しながら信長に抗議!あまりに激怒し過ぎてウッカリ信長の前で犯人を斬ってしまいます。

ハッ!とした利家でしたが時すでにお寿司。利家は織田家を追放されてしまいます。

 

利家の放浪生活

なんてこったい!無職になった利家は、なんとか織田家に戻ろうと思案します。

落胆する前田利家のイメージ

正午の公園で、ブランコに座りながら悩んだ末に「戦場に出向き、手柄を立てれば信長様も許してくれるはずじゃ!」などと妙案を思いついた利家は、勝手に戦場に顔を出すことにしました。

運命の日の早朝・・・。妻に「仕事に行って参るよ!」と言い向かうは城でもオフィスでもなく、戦場。これは織田信長のデビュー戦である桶狭間の戦いであったと言われています。

この戦で利家は数人を討ち取り功績を認められ許される・・・と思いきや許されず、しぶしぶ帰宅します。残念!

 

その翌年の美濃攻めで、また勝手に戦場に出てきた利家は、足立六兵衛という猛将を討ち取り、そこでやっと許されます。

 

 

賤ヶ岳の戦いと 末森城の戦い

月日は流れ1582年・・・ついに本能寺の変が勃発!織田家の前当主である織田信長と、現当主である織田信忠(おだ のぶただ)がどちらも明智光秀(あけち みつひで)によるクーデターで討たれます。

本能寺の変の写真 Honnoj” by 渡辺延一ブレイズマン (talk) 10:19, 12 July 2008 (UTC). Licensed under パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ.

 

賤ヶ岳の戦い

織田家の後継者を誰にするかで、織田家の重臣である羽柴秀吉(はしば ひでよし)と柴田勝家(しばた かついえ)の間で対立が生まれ、最終的に織田家は2つに分かれて争うことになってしまうのです。賤ヶ岳の戦い(しすがたけのたたかい)です。

この時点で前田利家は、柴田勝家の部下という立ち位置で、しかし、羽柴秀吉とも長らく友好が深いという関係図でありました。

 

この戦いで前田利家は、

1.羽柴側につく

2.柴田側につく

という、前田家の今後を左右する大きな2つの選択を迫られます。

 

かなり悩んだ利家は、最初は柴田側につき、途中で羽柴側に鞍替えするという 3.どっちにもついちゃう という選択をします。

最終的に、この戦いでの勝者は羽柴側となり、前田家は領地を加増され、元々は能登国(のとこく)のみだった領地が、加賀国(かがこく)の一部も領有することになりました。

前田利家の領有である能登国の地図 賤ヶ岳の戦い後の前田利家の領有地図

また、このとき本城を現在の金沢城に移し、これが加賀百万石とも言われる後々の繁栄の始まりでもありました。

 

末森城の戦い

織田家の後継者が決まって一安心かと思いきや、翌年には、その織田家を乗っ取ろうとする羽柴秀吉と、織田信雄(おだ のぶかつ)の間で争いが始まります。

戦いが始まると、羽柴側である前田利家の領地に1万以上の兵力で佐々成政(さっさ なりまさ)が攻めてきました。佐々成政といえば真冬の北アルプスを強行進軍した『さらさら超え』と呼ばれる伝説を残した、登山家も真っ青になるタフガイです。

前田家はこの時点で3000人ほどしか兵が出せない状況であり、非常に厳しい戦況でした。

 

この苦しい状況で前田利家は、深夜の海岸を全力疾走して、敵の後方に回りこみ奇襲を試みます。金の鎧を身にまとった利家は見事に奇襲を成功させ、佐々成政を撤退させることに成功します。

 

豊臣政権の五大老

ライバルたちを蹴散らした羽柴秀吉は、名を豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)と改名し、織田勢力はすっかり豊臣家に吸収されていました。天下統一です。

前田利家は豊臣家の五大老の一人に抜擢され、豊臣秀吉の嫡男である豊臣秀頼(とよとみ ひでより)、つまり豊臣家後継者の教育係にも抜擢されるなど、豊臣家に厚く信頼されていました。

豊臣秀吉が没した翌年に、後を追うように前田利家も病気により没し、その生涯を終えます。

 

 

前田利家は若い頃こそ傾奇者と評されていましたが、日本の歴史において、いち早く算盤の使い方を覚えた人物であり、世渡り上手で計算高い、賢い人物だったのでした。

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